遠くから呼ばれていた。
声も音も聞こえないのに、呼んでいるのだけがわかる。
その声が聞きたいのに、聞こえなくて、ジリと気持ちだけが焦る。
「ジロー!おい、平気か?」
目を開けると、視界いっぱいに忍足が慌てていた。
「……どうしたの?」
面倒くさかったけど気になったから、覚醒しきっていない重たい口を動かして訊ねる。
「おまえがどうしたんや!大丈夫なんか?」
忍足は、安堵したように少し表情を緩めて、わけのわからないことを言う。
「なにが?……あれ?樺地は?」
忍足はもうジャージに着替えていて、ということは、きっと部活が始まってるのだろう。
部活中に呼びに来てくれるのは、いつも樺地なのに。
「樺地にあんまり手間かけさせたらアカンよ」
忍足の咎めるような声に、笑いがこみあげる。
とても、嬉しかった。
「なに笑ってるん。聞いとるんか?」
こちらを覗き込んでくる忍足を、寝っ転がったまま見上げる。
「夢を見たよ」
そう言うと、忍足の眉が少し顰められた。
「ゆめ?」
「うん、夢。俺、耳が聞こえなかった」
「ああ、めっちゃうなされてたで。嫌な夢やったん?」
「ううん、聞こえなくてもね、みんなが怒ってるのか泣いてるのか笑ってるのか嬉しいのか、ちゃんと分かったから困らなかったよ」
忍足はただ黙って話を聞いてくれる。話を聞いてほしいときは、ちゃんと聞いてくれる。
忍足はそういう空気をよむのが飛び抜けてうまい。
「跡部は笑ってたし、向日は怒ってて、宍戸は楽しそうで、滝は悩んでた。鳳はニコニコしてたし、日吉は睨んでて、樺地は待ってた」
「ふうん」
「うん、困らなかったよ」
忍足が目を逸らす前に、起きあがってわざと視線が合わないようにした。
忍足に背を向けてから続ける。
「そこには、忍足がいなかったから」
忍足がいないなら、世界から音が消えても、構わない。
「でも、忍足が呼んでるのがわかったんだ。聞こえないのに」
ともすれば、聞き落としてしまいそうな君の低い声がとても好きで。
「聞こえなくて、すごく焦った」
聞き取りやすいとは言い難いけれど、不思議とよく通る君の声がとても心地良くて。
「声が聞きたかったんだ」
優しく全身に響く君の柔らかい声がとても懐かしくて。
「だから、夢でよかった」
目を覚まして、その声を聞けたことに、ひどく安心した。
「ほんまに?ちゃんと聞こえてる?」
背後で忍足が不思議なことを言う。
その声の調子があまりに真剣で、不安になる。
ちゃんと聞こえてると、振り向けば、膝をついていた忍足が立ち上がった。それに合わせて視線を上げる。
「聞こえてるよ」
まだ聞こえてないことがあるのだろうかと不安になる。
なんで忍足はそんなことを言うんだろう。
「ええか」
忍足がそう言って、一瞬空気を止める。何を言い出すのかと、身構えた。
「どこででも寝るんやない!授業も部活もちゃんと出え!毎回探さなアカン樺地の身にもなってみい!しゃんとせんかい!何回同じこと言わせるんや!」
一息に言い切った忍足をキョトンと見上げる。
直前の真剣な面持ちを崩しもしない忍足は、漂っていたシリアスな雰囲気を一気にぶち壊した。
それほど大きな声ではなかったけれど、耳がキーンとするような幻覚さえある。
「ほら部活行くで」
ぼけっと動かないでいると、忍足はスタスタと行ってしまう。
忍足の背中にハっと我に返った。
「もう、なんだよ!ジロー好きやで、とか言ってくれるのかと思ったのに!忍足のバカ!」
言いながら置いてかれまいと、立ち上がる。勝手に緊張したのが馬鹿みたいで腹が立つ。
無視されるだろうと思ったけど、脚を止めて振り返った忍足が器用に片眉を上げた。
「ジロー好きやで。そんなんいつも言うてるやろ。ほら、行くで」
忍足はしれっと棒読みで適当なことを言う。
(くそー)
何が悔しいって、それでも「好き」という単語が嬉しいと思ってしまうこと。
「それから、バカって言うなや。これも何回言わすん」
関西人にバカは禁句らしい。確かに忍足は何度も言うけど、そんなのどうだっていい。
このままでは腹の虫が治まらない。だけど、いまや自分が何に腹を立てているのか分からなくなってきていた。
「忍足のバカ!!」
とりあえず、腹いせに忍足にあたることにする。
睨んだつもりなのに、目の前の忍足は、プっと噴き出す。そのまま大げさに笑い出した。
「ジロー、なんつう顔してるん」
瞬間、忍足の笑顔に毒気を抜かれる。
けれど、ここで甘い顔をしてはいけないと、なんとなく思い直した。
なかなか笑いのおさまらない忍足の横を通り抜ける。
さっきとは逆に忍足の前を黙って歩く。歩きながら、既に自分の怒りが中和されていることに気付いた。
これだから、タチが悪い。
忍足の低い笑い声が響く。
段々と後ろから近づく笑い声に守られて、歩く今を幸せだと思う。
(俺をがっかりさせるのも怒らせるのも幸せにしてくれるのも、いつでも忍足だ)
ふと、さっきの夢を思い出す。
コートへ向かい歩きながら、そこに当たり前のようにある幸せな音に感謝した。
忍足が追いついて横に並ぶまで、あと3秒。
並んだ、その時に、伝えるべき言葉を用意した。
そこに音があるうちに。
カウンタ2604記念
**
関西人に「バカ」は禁句というのは、私の偏見です。
どうでもいいですが、ウチの攻めはスキスキ言い過ぎですね……。
2005-02-17