昨日の夕方から降り出した雪は、夜じゅう休むことなくしんしんと降り続けた。
今朝、部屋の窓から見た見慣れているはずの景色はずいぶんと様変わりしていた。
この辺りでこんなに雪が積もるのを見るのは初めてで、白石は、しばらく窓の前から動けずにいた。
人々の生活が本格的に始まる前の束の間の静寂、屋根や庭や車や道路や街灯や、街のすべてを覆った白銀が朝の強い陽光を浴びてキラキラと輝いていた。
普段朝の健康体操に当てている時間を使って、玄関周りの雪かきをした。
家族の通学や出勤に支障がない程度の最低限の作業のつもりが、やり始めたら楽しくなってきたのと、元来の半端を嫌う性質からついきっちりと仕事をこなしてしまった。
雪かきをしながら家の前の道路を眺める。今日は昨日と打って変わってすっきりとした冬晴れになりそうな天気だったが、気温のあがりきらない朝のうちには、積もった雪は溶けないだろう。
この道路の状態では自転車は使えないと判断し、いつもよりも早い時間に家を出た。

白石は、慣れない足下の感覚を違えぬよう慎重に足を運ぶ。
受験生であることよりも聖書であることよりも、何よりも大阪人の矜持にかけて、スベるなどということはあってはならないのだ。

もともと十分な余裕を持って家を出たつもりではいたが、のんびりと歩いたにもかかわらず、学校に到着したのがまだずいぶんと早い時間だったことに苦笑した。
珍しい雪に、案外テンションの上がっている自分に気付く。

もうそこへ毎日通わなくなって何ヶ月も経っているのに、自然と脚が向かう場所がある。
今朝はコートが使えないということは周知の事実で、いつも賑やかなここも誰も居ない今は静寂と圧倒的な白が支配していた。
白石は、コート入口の手前で脚を止める。広いコート一面の新雪に踏み出すことはできなかった。
昨日の昼間のうちにコートの上にはビニールを敷いているはずで、上を歩いたところで土が傷むことはなかったが、真っ白いものを踏み荒らすことに抵抗があった。
最後に一歩近づいて、すぐ傍のフェンスに手を伸ばす。
ガシャリと想像以上に大きな音が鳴ったフェンスを掴んだ手に、痛みが走り咄嗟に手を離す。
冷え切った金属の凶器のような冷たさが痛みとなって指先に刺さった。
白石は、そこで初めて自分が手袋を忘れてきたことを知る。
「……どんだけ浮かれてんねん」
フッと口元を緩め再び苦笑し、ポソリと落とした。
かじかんだ手を握って開く。
左手は包帯を巻いている分、ほんの少しマシだったが、一番冷える指先はむき出しだったし、薄い包帯の保温効果などたかが知れていた。
部活を引退して、この左手の出番はめっきり少なくなっていたが、それでも白石は、毎日包帯を巻いて学校に来る。
一度ついた嘘は、つき通さなくてはならない。

白石は、赤くなった指先に息を吹きかけた。
「あーーー!」
朝からいつも以上に元気な声に弾かれて、顔を上げる。
「白石や!!」
雪山に連れて行ったら、確実に雪崩を起こしそうな音量で金太郎が名前を呼んだ。
「金ちゃん」
(金ちゃんとは、雪山行かんとこ。特に春先)
金太郎は足場の悪さをものともせず軽快に白石の元へと駆け寄った。
「早いな、おはようさん」
「おはよう!白石も雪見に来たん?」
「そうや」
無意識に擦り合わせた白石の手を金太郎が目敏く見る。
「白石、手え寒いん?」
「え?」
「ワイの手袋半分貸したる!」
思考するよりも早く金太郎が当たり前のように示す思いやりに、白石は微笑ましく目を細めた。
「金ちゃん、ありがとうな。けど気持ちだけもろとくわ」
(金ちゃんのじゃ小さいやろし、伸ばしてしまったら申し訳ない)
話を聞いているのかいないのか、金太郎はおもむろに学ランの腹をまくり、中から何かを取り出す。
白石は金太郎の手の動きを目で追った。
(手袋や。どこに入れとん。けど、そんなことより)
「金ちゃん!コートは!?手袋よりコートやろ!」
今までうっかり見逃していたが、この時期に学ラン一枚という金太郎の姿に、今更ながら白石は慌てる。
(雪かて降る季節やで)
「コート?ジャマやから置いてきた」
質問に答えながら視線を落した金太郎が手の方向を確認してから、右手を差し出した。
「はい白石、手袋」
「いや、俺はええよ。金ちゃんが両方つけ」
「エンリョせんでええねん!」
ニコっと笑った金太郎は、白石の右手を取って強引に手袋をはめる。
力加減を間違えているせいで少し痛かったが、百パーセント善意の手を振り払うことなどできない。
(あれ?)
「昨日オカンが買うてくれたん」
金太郎が自慢げに白石を見上げる。
それは、今日の雪遊びのために用意されたのだろう、毛糸ではなくスノースポーツ系の売場で売っているような防水と保温効果に秀でた素材でできている手袋だった。
その機能の代わりに、伸縮性は一切ない。
それなのに。
金太郎が白石の右手にはめてくれた手袋は、決して小さくなどなかった。
(むしろ、なんか余る、ような……?あれ?)
「あったかいやろ?」
金太郎が同じものをはめた左手を見せる。
その手袋は大きすぎることなく金太郎の手にピタリと収まっているように見えた。
「……ほんまや」

ぽふんと鈍い音をたて、金太郎が白石の右手を取る。
「白石も遊ぶやろ?」
くるりと大きな目を輝かせて、金太郎が期待の篭もった眼差しで白石を見つめた。
白石が答える前に金太郎は掴んだ手を引く。
引っ張られながら、白石は、金太郎の手をじっと見た。
握った左の手袋は、やはり指先までしっかり埋まっている。
(……末恐ろしい)
反射的にそう思って、けれど、白石は何故そんなことを思ったのか自分でもよくわからなかった。

金太郎は、さっき白石が脚を止めたラインを軽々と飛び越えて、真っ白いコートへダイブした。








2010-01-31
金蔵 冬  2010年初雪記念(東京) 







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たまには引退もする(部活)