春先、南の各種処理能力は、通常の4割減になる。
「南、今日は帰ったほうがいいんじゃない?」
こんなことをオレに言われるのも不本意だろうけど、言ってるオレだって不本意だ。
我ながら、率直なほど呆れた声が出た。
「薬飲んでるし、平気。出るよ」
そう言う南の声は、マスク越しにくぐもっている。
心なしか息づかいが荒く、目は充血寸前で明らかに潤んでいた。
かわいいな、とか言ってる場合でもなく。
「全然平気じゃないだろ。見てるほうが気の毒でイヤだよ」
こういう言い方をすれば、南はグッと言葉を詰まらせる。南は、自分よりも他人を優先する性癖がある。
それから、意外と頑固だ。
顔の半分がマスクで隠れていて、その表情は分かりにくいけど、眉間に皺を寄せ俯く様は、言葉よりも雄弁に不満を表現した。
「そんな死にそうな顔しないでよ、仕方ないじゃん。みんなだって分かってるし」
「いや、でもっ……」
南は、顔を上げて言い募ろうとしたが、最後まで続けることができなかった。
ぶえーーーしょっ!
派手にくしゃみをした南は、一度マスクを取り、ポケットティッシュで鼻をかむ。あのポケットティッシュはオレがあげた。鼻セレブだ。
それでも南の鼻は目に見えて赤くなっていた。
「ほら、中でそれだよ?外でテニスなんてムリだって!」
ここぞとばかりに、追い打ちをかければ、南は口をへの字にして黙る。そのまま立っているのに疲れたのか、手近にあった椅子を引いて座った。
いっそ風邪だったらば、こんな不毛な問答をしなくてもいいのに、などと考える。
本人が体調が悪いと判断しないものだから、こんな事態になる。
普段、南は立っていることを苦痛に思うなんてこと、滅多にない。体調が万全ならば、いまみたいにぐったりと椅子に座るなんてこと、ありえないのに。
自覚がないっていうのは、厄介だ。
南が患っているのは、いわゆる日本人の国民病と呼ばれるアレ。
南は特に症状が重くて、見ていて可哀想だというのは、南を説得する手段以前に、紛れもない本心だった。
雨が降り、冷え込んだ昨日とは打って変わって、今日は、晴れ上がった青空。
テニス日和の春の気候は、カラッとしてあったかい。その上、風が強かった。
つまり、スギにとっては絶好で、南にとっては最悪な条件がすべて揃っていた。
今シーズン最高の花粉量は、容赦なく南を追いつめる。
「あ、そうだ。南、これあげる」
できる限りのさりげなさを装い、鞄から出した袋を南に押しつけた。
南は、んあ?とはっきりしない声を出し、もそりと動く。
症状自体のせいなのか、薬のせいなのか、この時期の南は動作も頭の回転もいつもより鈍い。
ぐいと押しつけた力を緩ませずに、少し待つ。
しばらくして、袋は無事にオレの手から南の手へと収まった。そのことに、安堵する。
南は渡されたものをじっと見る。袋にでかでかと書かれている「花粉」という文字に顔を顰めた。字も見たくないらしい。
それからおもむろに笑顔になる、その表情の変化を見逃さないように注意深く眺めた。
「お、サンキュー。薬のせいか、すげえ喉渇くんだよな、助かる」
南は、無防備に笑ってすぐに封を切る。中から飴をひとつ取り出し、口に含んだ。
あげたのは、花粉対策ののど飴。いまの時期は、コンビニでも必ず置いている。
オレは花粉症じゃないけど、至る所で見かける花粉関連商品をチェックしてしまう癖がついてしまっていた。たぶん南よりもその手のグッズに詳しい自信がある。
ずっと見ていたら、つと視線を上げた南と目があった。
「なんだよ?お前も欲しいのか?」
南はそう言いながら、もう一度袋に手を入れ、飴を取り出す。
ただ、南の処理能力が追いつかないうちに、何かを仕掛けようと考えていただけで。別に飴が欲しかったわけじゃないけど、せっかくだからご相伴に与ることにした。
もらった飴を手で遊ばせながら、作戦を立てる。
弱みっていうのは、つけこむものでしょ。見せるほうが悪い。
考えながら、飴の小袋を開けて、口に放り込む。途端、思考がフリーズした。
「っ!なにコレ!?まずっ!」
口に広がった喩えようもない味に、衝撃を受ける。すぐに、同じ飴を舐めてるはずなのに、何のリアクションもない南を信じ難く見た。
「そうか?いま味覚とかあんまないから分かんねえ」
のんきにそんなことを言う南に思わずカッとして、咄嗟にその胸ぐらを掴んだ。ただでさえ短い気をさらに縮めるくらいの破壊力を持った味だった。
屈んだ体勢で、南の襟元をグッと引き寄せる。南には驚く間さえ与えず、近づけた顔を止めることなく、口付けた。
動きが鈍くなっている南は反応できない、
できないはずだった。
それなのに、予想に反して、異様に俊敏に南が動いた。
舌で押し込んだはずの飴が強い拒絶を受けて、宙に浮く。直後、重力に逆らうことなく床へ落下した。
「……え?」
止まったままの思考は、すべての反応を無効にした。脳とは別機能のように、動体視力だけが正常に働いていた。
瞬間、南は身体を捻り後ろに引いてから、目の前にあったオレの頭を鷲掴みにし、遠ざけようと力を入れた。
(アイアンクロー!?)
南の手は大きい。渾身の力で握られて、悲鳴を上げる。
「痛ったーい!!」
「あ!わ、悪い!大丈夫か?」
南が慌てて手を離す。でも、解放された頭の痛みよりも、南の反応へのショックのほうが大きかった。
いつもしてるわけじゃないけど、初めてしたわけでもない。
けれど、こんなに嫌がられたのは、初めてで。混乱する。頭よりも、ざわと胸が痛い。
「……なに?どうしたの?南?」
頭の中がハテナだらけで、情けないことに声まで震える。
自分でも可笑しいほど動揺していた。
(嫌われたのか、)
最悪の展開ばかりが頭を掠める。
南の顔を見る度胸がなくて、彼の表情が分からない。
死刑宣告を待つような長い苦しい時間が流れる。殺すのも生かすのも南の一言だ。
「や……、はな…鼻が……」
「鼻……?ああ、苦しかった?ゴメン」
鼻が詰まっているから息ができない、という意味かと思い、少し気が緩む。顔を上げると、南は泣きそうな顔をしていた。
けれど、南はすぐにそれを否定した。泣きたいのは、こっちだ。
「いや、違くて……」
違くて、なんなのか、言葉が続かない。針のむしろのような状況に耐えきれず、先を促す。
「ナニ」
意図したよりも出た声は低い。思わず、睨みつけるように見てしまった。
南は、躊躇いつつ、口を開く。顔が赤い。
「はなみず、出て……きたない…カラ、」
消え入りそうな声で南が言うのを辛うじて、聞き取った。
(ええーー!)
なんだ!?この可愛い生きもの!
逆バンジーのような精神状態に、動悸が激しく、生体機能が一層の混乱と動揺をきたしてた。
現実についていけない。いまや果たしてこれが現実なのか甚だ疑わしいけれど。
オレが体勢を立て直す前に、南がすくっと立ち上がった。つられて、視線を動かす。
「やっぱり、今日は帰る。悪いけど、みんなに言っておいてくれ」
はじめ言葉は意味を伴わず、ただ音として届いた。懸命に頭を動かし、時間をかけてその意味を理解した。
「ああ、うん……」
えーと、当初の目的は果たしたということか?そんなことすっかり忘れていた。
見上げた南の目尻が赤いように見えた。その赤がやけに鮮明に目に焼き付く。それが消えてしまうのが勿体なくて、目を閉じた。
まぶたの裏が赤く熱い。もしかしたら、この赤味は南のではなく、自分のものかもしれなかった。
次に目を開けた時には、すっかり帰り支度を整えた南が歩き出すところだった。
「あ、そうだ。千石、これ」
思い出したように振り返った南が何か包みを鞄から取り出す。差し出されたものの意味が分からず、訊き返す。
「なに?」
「今日ホワイトデーだろ。先月押しつけられたからな、一応お返し」
立て続けに浴びせられる強烈なボディーブローに、声も出ない。たとえ、声が出たとしても、何を言えばいいのかわからなかった。
結果、オレは、呆然と立ちつくす。
ただ呆然と、部室から出て行く南を見送った。
じゃあな、と言った南に、応えることができただろうか。
オレが止まっていても、時は止まることはなく、耳慣れた軋んだ音を立てて、扉が閉まった。
(それは、反則だろ)
先月は、押しつけて奪った。今日は、誤魔化しながら渡した。
それなのに、こんな正攻法で真正面からぶつかられたら、オレの卑怯さが際立ってしまう。
いつまでも、フリーズしているわけにもいかないから、わざとらしく大きなため息をつき、強引に再起動をかけた。
手の中に残された包みへと視線を落とす。
きっといま南は頭がちゃんと働いていないから、こんなことになったのだろう。
その行動の意味など深く考えずに、おばさん辺りに持たされたものをただ持ってきたんだ。
そうに決まってる。
でも、もしも、そうじゃなかったら。
自分に都合のいい想像を振り切る。期待してしまうのは、ダメだ。
こっちが弱みにつけこんでやるつもりだったのに。結局、見事な返り討ちにあった。
たとえば、もしかしたら南がオレのためにお返しを用意してくれたのかもしれない、と。たったそれだけのほんの些細なことが。
こんなにもオレを喜ばせる。
これが惚れた弱みってやつ。いつでも南には、敵わない。
嬉しくて、悔しくて、幸せで。
やっぱりオレはキミが大好きなんだ。
2005-03-14
カウンタ 3730記念
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「南!昨日ありがと!飴おいしかったよ!」
「飴?お前にやったのは、マシュマロだろ。お前、まえにマシュマロ好きだって言ってたから」
「………」
「おい千石?大丈夫か?顔赤いぞ」
**
3730ヒットありがとうございます!(キリ悪)キリ記念とホワイトデーを合わせてやりました。
いつになく恥ずかしいけど、千南はこれくらい甘くてもいいとおもう!
つうか、これでつき合ってないっていうほうがおかしいよ!バカじゃないの、この子たち!(おまえだよ)
南は絶対花粉症だと思う!!南の花粉症妄想をしながら、日々暮らしています。