視界が霞んだような気がして、ずっと向き合っていたモニターから目を離した。
眼鏡を外し、右隣の机に置く。
その程度の動きだけで体がみしりといった。どうやらだいぶ長いあいだ同じ姿勢で居たようだ。
モニターの下に出ているデジタルの数字を確認しようとして、眼鏡を外したことを思い出した。裸眼ではこの小さい数字は読みにくい。
グッと顔を近づけ目を細めて、やっと判別した数字は予想以上の時間経過を示していた。
もうこんな時間か、とひとりごちて伸びをする。肩と腰が悲鳴を上げた。

「入るぞ、貞治」
「うおあ!?」
ひとりのはずの自室に唐突に割り込んだ声に虚をつかれた。一気に心拍数が上がる。もしもいま心電図を見たとしたら、この瞬間、異常な数値を叩き出しただろう。
ビクリと体勢が崩れた拍子に危うく椅子ごと倒れそうになり、しかしすんでの所でなんとか堪えて立て直した。
響いた静かな声には聞き覚えがある。
「れ、蓮二!?何してるんだ!?」
椅子を回して振り向くと、ぼやけた視界に見慣れた長身が佇んでいた。
「なんだ、いま入っては不都合か?」
淡々と話す蓮二は、驚かせた自覚もなければ悪気もないようだった。
大きく息を吐いてようやく脈が正常に戻りつつある。
「いや、そういうわけじゃないけど。だいたい、入るぞってもう入ってるじゃないか。ノックぐらいしたらどうだ」
「もちろんしたさ」
返事をした覚えはない。ノックをしたら返事を待ってから扉を開けるものだ、と言おうとして少し考えてからやめた。
「……そうか」
作業に夢中になっていて気付かなかったが、蓮二がしたと言うのならしたのだろう。聞き逃した自分に落ち度がある。
蓮二は肩に掛けていた大きな鞄をベッドの脇に置いて視線を泳がすように室内を見回した。
「随分大荷物だな、どこか行くのか?」
「いや、泊まりに来たんだ。邪魔するぞ」
「は……?え?……初耳だけど?」
「明日の練習試合会場がここから近くてな。現地集合だから泊めてもらおうと思って来た」
的を射ているのかタイミングを外しているのか判じかねる説明をぼんやりと聞いた。
「なんでもっと早く言わないんの、食事の準備だってあるし……」
「おかあさんには一週間前に了承を頂いてあるぞ」
昔からうちの母親のお気に入りだった蓮二は、子供の頃うちの母親が冗談半分で言った「蓮二君は息子のようなものだから、私のことをおかあさんと呼びなさい」という指令をいまだに忠実に守っている。
「あ、そう……まあ座れば」
腑に落ちないこと山のごとしであったが、別に予定があるわけでもないし、時間の無駄に終わることは目に見ていたので、異を唱えることは諦めた。
何故か突っ立ったままの蓮二に座るように促したが、この部屋には客に勧めるべき椅子はない。
気を遣う間柄でもないし床でもいいかと考えていると、蓮二は座らず一歩前に踏み出した。
「休憩中だろう、飲むか?」
そう言って手に持っていたコンビニ袋からスポーツドリンクを取り出して見せる。
「なんで……」
休憩中だと分かったのかと訊こうとした時、ペットボトルを手渡すために近づいた蓮二が机に置いてあった眼鏡を持ちあげた。
ああ、なるほど。
「ありがとう」
ペットボトルを受け取ると、蓮二は眼鏡を持ったままベッドを背にして床に座った。
眼鏡が気になるのだろうか。ツルを持ち、手の中をじっと見ている様子に内心首を傾げる。
「なに?」
「また厚くなった」
蓮二は質問の答えというよりは独り言に近い呟きを落とす。
「ああ、また少し悪くなったんだ。このあいだ合わせてレンズを調整した」
「モニターばかり睨んでいるからだ、そもそもお前は姿勢が悪い。集中すると周りのことが全く目に入らなくなるのも悪い癖だ。せめて適度な間隔で休憩をいれろ」
「……返す言葉もないよ」
そんなの今更だ、と思わないこともないが、ずらりと並べられた言葉達は悉く正しくて一切の否定を許さないだけの説得力もあった。
蓮二は視力がかなりいい。
その彼が言うのだから、これ以上の効果はないだろう。
はたから見ると開いているのかも疑わしいその双眸が実際は信じがたく遠くまでを見通していることを知っている。
蓮二は昔から狩猟民族並みの視力を誇っていた。


ふと子供の頃を思い出す。
練習に夢中になっていて、すっかり辺りが暗くなってしまってから二人で帰路についたことがあった。
夏が本番を迎える前の比較的過ごしやすい季節だった。
隣を歩いていた蓮二が急に脚を止めて空を仰いだ。
「博士、見ろ。今日は珍しく星の光が尖っている」
きっとその日の夜空には都会では貴重なくらいの星が瞬いていたのだろう。
蓮二の目には眩しいほどの星々がくっきり見えていたに違いない。
彼と同じように空を見上げた。しかし蓮二の言うようなまばゆい光はそこになかった。
確かに星の数は多いように感じた。けれどその光の輪郭はぼやけて、感動よりも落胆をもたらした。
大きな星が見えたけれど、自分が見ているその星が一つなのか二つなのかさえ自信がなかった。
既に眼鏡をかけていて補正された視力でもそれが限界だった。
その時に感じた淋しさによく似た感情を鮮明に覚えている。


ちょうどいま、あの時をそっくりトレースしたような感情が首をもたげる。

たとえば、こんなに近くにいる蓮二の顔さえ裸眼でははっきりと見ることができないのだ。
不透明な硝子を通さなければ、世界を把握できない自分はとても不完全に思えた。
きっとこの硝子は知らないうちに世界を歪めている。
蓮二がまっすぐ見ているのと同じ世界を捉えることは決してできないのだろう。
ついさっき異常な脈を打った胸がチリと痛む。

「いまお前には何が見える、貞治」
どうしようもないことを考え込んでいて蓮二が何を言ったのか耳に入らなかった。
「え」
「この硝子を通した世界はどう見えているのだろうな」
やはり独り言のように彼は呟く。
「目に見えるものが全てではない、きっとそれは真実なんだろう」
それまでずっと落としていた視線を不意に上げた蓮二と真正面から目が合った。
「それでも、俺はお前と同じものを見たいと思ってしまうんだ」

瞬間息が止まり、もがくように空気を求めて大きく息を吸って吐く。
「なに……急にどうしたの、何か変なものでも食べたんじゃない」
思わず茶化した。なんだかとても喉が渇いていた。動きの緩慢な口をやっとのことで動かして意味のない言葉を紡ぐ。
「よくわかったな」
「え?」
予想していた否定を覆す肯定が返ってきたことに驚いた。
「十二分と三十四秒前、おかあさんからちょっとした手厚い歓待を受けてな」
ちょっとした手厚い、という矛盾した修飾語が使われるべき光景をありありと思い浮かべることができた。彼は、昔から彼女のお気に入りだ。
「貞治、家の冷蔵庫に自作ドリンクを貯蔵するのはやめろ」
「あ、そういえば明日の練習に持っていくのに用意しておいたんだ、なんだい蓮二飲んじゃったの」
どうやらペットボトルに入れておいたドリンクを母親が気付かず振る舞ったらしい。蓮二は母の手前残すこともできなかったのだろう。
「青学の部員達には感謝してもらいたいくらいだ」
「こちらこそ立海の連中に感謝してもらいたいよ。明日、立海の達人はコンディション抜群のはずだ」
冗談めかして言いながら手の中のペットボトルを傾ける。喉が渇いていた。
「もちろん、それはそのお返しだ。心ばかりの礼を入れておいた」
それ、と指をさされた手の内に、思わず口に含んだものを吹きそうになった。
「蓮二!?何を!!」
今更吹き出してももう遅い。既にボトルの四分の一ほどを嚥下した後だ。
「さて何だろうな」
そう言った蓮二がおもむろに手を伸ばし、持っていた眼鏡を差し出す。
受け取った眼鏡をかけ直すと、溶けた世界の輪郭が再び形を取り戻した。
真っ先に確認した先で、蓮二が薄く笑っているのもしっかり見える。
その表情に、機能低下していた脳がやっと動き出す。
先程ペットボトルのキャップを開けたときのしっかりとした手応えを思い出した。あれは未開封だった。
からかったのか、と言おうとして少し考える。そう言ったなら蓮二は恐らくこう答えるだろう。
遊ばれてばかりいるのも癪なので、先回りをすることにする。
「わかった、愛だろう」
蓮二は特に驚いたふうも見せず、ふふっと笑った。
「その通りだ」
彼の答えに満足し、笑う。

ついさっきチリと痛んだ胸はすっかり軽くなっていた。






HAPPY BIRTHDAY!! dear 乾貞治 & 柳蓮二
2006-06-03/04








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私的 柳イメージ
常にマイペースで誰とでも会話があまり噛み合わない
頭の回転が速すぎて合わせようと思わない相手とは徹底的に会話が噛み合わない
乾を相手にするときは意図的に少しズラして会話を噛み合わせないようにしている
乾だけが最終的に自力で帳尻を合わせてくるから会話が楽しい
言葉を選ぶ基準は必要か不必要か
必要であれば恥ずかしいセリフもさらりとこなす