何とはなしに見た部屋のデジタル時計は、23:36を表示していた。
もうすぐ今年の誕生日が終わる。
乾は、考えるのを止そうと考えつつ、ずっと足りないものについて考えていた。
実際は、既に答えの出ていることに対して、考えるもへったくれもないのだが。
そう、この時間になると、ひとつのことを考えすぎて、精神的にハイになっていた。
無い物強請りは、いっそ堂々とすれば、在る物強請りになりやしないか。
誰が、それを無い物だと決めたのだ。在るものを忘れているだけかもしれない。
それを思い出させてやって、何が悪い。
最終的には、自分の都合のいいように開き直っただけなのだが、それに気づけるだけの正気はとっくに失っていた。
乾は、床の上に放り出してあった携帯電話を掴み上げる。
二つ折りの電話を片手でこじ開けた。
見慣れたディスプレイには、23:42という数字が並んでいた。
その数字に急かされて、必死にメモリから目的の番号を探し出す。
(終わってしまう!)
04……で始まるその番号に、この時間に電話を掛けるということが、どれだけ迷惑なことか、というような正常な判断もできない。
乾は、探し出した番号を表示させた携帯の通話ボタンを躊躇うことなく押した。
「はい、柳です」
電話は、あっけなく繋がった。乾は、コール音をほとんど聞かなかった。
まるで待っていたかのようなタイミングで、柳は乾からの電話に出た。その不自然さに、乾はやはり気付かない。
「れ、蓮二!」
電話越しに聞こえる柳の声に、乾の声が上ずる。
しかし、高揚感はそこまでで。
「貞治か、なんだ?」
聞きたかった抑揚の乏しい穏やかな声を聞いて、乾は、自分が急激に冷静になるのを実感した。
「あ、いや……」
出会い頭に勢いを削がれたのは、致命的だった。
せめてあと少しだけでも長く、我を失っていられたら、厚顔にただ欲しいものを要求することができたのに。
一度我に返ってしまえば、もうそれは到底無理な話だった。
電話の向こうでは、柳が黙ったまま辛抱強く待っていた。
「あの、な……」
電話をかけておいて、何でもない、とは言えなくて、けれど何を言えばいいのか咄嗟に思いつかず、乾は、言葉と視線を泳がせた。
床に座り込んだまま見上げた視界に、机の上で開きっぱなしになっているノートが飛び込む。
乾は、思いつくまま口を開いた。
「明日、練習試合をするんだが、相手校についてちょっと訊きたいことがあるんだ。神奈川だから詳しいかと思ってな」
乾のノートには、明日の対戦校についてのデータがまとまっていた。
「どうした、珍しいな。お前が情報収集を怠るとは」
言葉の内容とは裏腹に、柳の声の調子は変わらない。
「ああ、悪い。少し気になることがあってな」
乾は、適当に二、三質問をする。
それに対する柳の答えは、簡潔にまとめられ的確だった。
乾としては、苦し紛れに誤魔化すために、選んだ話題だったが、思いの外、実のある会話になった。
実際は、乾のデータ収集は完成しており、机の上のノートには、明日の対戦校についてのデータが全て書き出されていた。
柳への質問も、あらかじめ答えのわかっているものだったが、柳の視点からの意見は、新鮮で参考になった。
乾は、習慣で動かしていた手を一度止め、立ち上がって机に着く。
ノートに向かい、柳の意見をしっかりと書き留めた。
お互いの声が途切れた一瞬、ふと目に留まったデジタル時計は、0:03を表示していた。
(ああ、終わってしまった)
結局、望んだものは、得られなかった。
残念だったが、それでも、電話をして良かったと思った。
せめて、声を聞けて良かった。
それに、このまま回線が繋がっていれば、思いを直接伝えることができる。
乾の誕生日が終わり、そして日付が変わった。
「蓮二、」
乾は、束の間の沈黙を破り、柳と自分を繋げてくれている筈の小さな機械へ呼びかける。
「なんだ」
間髪入れぬ反応に、確かに繋がっていることを確かめ、言葉を継ぐ。
「誕生日、おめでとう」
受話器越しに、フッと笑う気配がした。乾は、顔が見たいと少し思った。
「もうそんな時間か。ありがとう」
「いや、夜分に悪かったな」
乾は、ここへきてやっと、勢いだったとはいえ、夜中に固定電話へ電話をしてしまった非常識さに思い至った。
それから、少しの言葉を交わし、「おやすみ、」と電話を切った。
乾は、携帯を机の上へ置き、ノートに向き直る。
先程の柳の意見を交え、明日のために最終チェックをするつもりだった。
手の中でペンを回し、思考の切り替えができていない自分に苦笑する。
柳は、忘れてしまったのだろうか。
それとも、覚えているけれど、何も言わないのだろうか。
果たして、この場合、どちらの方がいいのだろうか、と考える。
その時、机の上で携帯電話が着信を告げた。
こんな時間に鳴るとは思っていなかったので、その音にビクリと肩が揺れた。
静まりかえった家の中では、いつもの着信音がひどく大きく聞こえる。
さっき置いたばかりの携帯を再び手に取った。
ディスプレイのメール着信アイコンに従い、メールボックスを開く。
そこに、表示された発信元に一瞬目を疑った。
柳蓮二
確かに、そう書いてある。
しかし、柳は携帯電話を持っていない。もし、持っていたとしても乾は知らなかった。
つまり乾の携帯に、柳から名前表示のメールが来るはずがない。
乾は、本文を開くことも忘れ、首を傾げる。
柳が今度はどんな仕掛けをしたのかと考え、しかしすぐに、思い出したことがあった。
二ヶ月前、「柳蓮二」と登録した携帯番号があった。
実際は、柳の電話ではなかったのだが、あの時、登録削除の気力がなかった。
すっかり忘れていたが、そのままになっていたらしい。
名前のタネは判明したが、本当の持ち主のことを思えば、さらに謎が深まった。
こんな時間に彼が一体何の用なのか。
考えていても埒が明かないので、本文を開いてみる。
[件名]
貞治へ
[本文]
誕生日おめでとう
柳蓮二
二〇〇五年六月三日
その短いメールに、不覚にも心拍数が上がる。
よく見れば、それは、配信日時指定メールだった。
指定されていたのは、
2005.06.03.23:45
乾は、そのメールを何度も読み返す。
柳は、覚えていてくれて、祝ってくれた!
その事実が想像以上に嬉しかった。
自然と顔がにやける。
さっきとは全く逆の理由で、データチェックが手につかなかった。
何度も読んで、そのメールを保護設定にすることも忘れない。
欲しかったものを手に入れたという満足感よりも、柳が自分のことを考えていてくれたということに対しての幸福感が勝る。
乾は、データチェックを諦めて、この幸せな気持ちのまま今日は寝てしまおうと決めた。
ベッドへ入り、もう一度、携帯を開け、同じメールを読んだ。
やっと心拍数が正常に戻った頃、眼鏡を取り、ベッドサイドへ置く。
眠りに落ちる直前、無意識に、考えた。
ひとは、ひとつ手に入れると、さらに欲しがる。
さっき伝えた自分の言葉が、彼にも同じ効果をもたらしているといい。
乾は、祈りにも似た切実さで、そう思った。
HAPPY BIRTHDAY!! dear 柳蓮二
2005-06-04
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えーと、お暇があったら、柳乾4/1を読んでいただくと、少しわかりやすくなると思います…。
博士・教授おめでとう!!