「蓮二じゃないか。奇遇だな」
声を掛けられ柳が振り向くと、室内にも関わらず逆光を背負って乾が立っていた。
「貞治。いや、待っていたんだ。休みの日にお前がここで買い物をする確率は85%」
柳は、驚いた素振りを見せず、口調も落ち着いている。
「はは。お前が言うと冗談に聞こえないな。こんなところで何をしているんだ?」
乾の表情はほとんど変わらなかったが、口元が僅かに綻ぶ。
「……ちょっと、親戚の家に用事があってな。その帰りだ」
柳の言葉に乾は、そうか、と答えた。
「俺は、これから研究をしようと思ってな」
乾は、両手に持った買い物袋を少し掲げて見せた。
袋の中には、食材がぎっしり詰まっているのだろう。とりあえず柳が気になったのは、半分近く袋からはみ出ている長ネギ。
「では、俺も協力をしてやろう」
「え?どうしたんだ?」
予想外の柳の反応に、乾が訝しむように眼鏡の位置を直す。
「いいじゃないか、意見は多い方がいいだろう?」
「そりゃ、まあ……。なんだ、気味が悪いな」
「失礼なことを言うな。半分持ってやろうと思ったが、やめる」
「大人げないことを言うな」
乾が差し出した袋を、柳はその言葉とは裏腹に、当然のように受け取った。
「今日は寒いな」という乾の言葉を皮切りに始まった気候の話が、段々逸れて量子力学の話題に花を咲かせ始めた頃、乾の自宅のドアの前へ辿り着いた。
乾と柳の日常会話はお互いに早口で、ほんの少しの時間に通常では決してありえない密度を作り出す。
柳が通されたのは、台所と隣り合った居間である。適当に座ってくれと言われて、ソファに腰掛けた。
乾は台所に立ち、さっそくジューサーと食材を用意する。
家人は不在で、特に母親が外出しているということは、台所を独占できる貴重な時間だった。
乾が買い物袋から食材を出しながら居間のほうを見ると、柳は持参していた本を開いたところだった。
協力すると言っていたが、作成過程に参加する気ははないようだ。期待していたわけではなく、むしろ予想通りの行動だったから構わない。
乾はノートを取り出し、昨日走り書きでメモをしたページを開く。今日は思いついた食材の組み合わせを試してみようと思っていた。つまり新作だ。
時間がなくてまだ栄養学的な計算ができていなかったが、せっかくの休日だったので実践してみようと思い立った。微調整はあとからすればいい。
いつの日も行動は想像に勝る。
「できたのか?」
絶妙なタイミングで居間から静かな声が届く。乾がその声に顔を上げると、姿勢良くソファに座った柳が本を閉じて顔をこちらに向けていた。
「ああ」
確かにちょうど作業が終わったところだった。
乾は、飲むか?と言いながら、グラスを用意しようとシンクの方へ移動する。
「貞治、退屈だ」
随分近いところで声がしたことに乾は内心驚く。いつのまにか柳は台所へ入り、テーブルの向こう側に立っていた。
「そうか」
驚いたことを隠すためになんとか無表情を保ってから、勝手な言い分だと、乾は軽く流した。迂闊にも退屈なときの柳の突飛さを失念していた。
「ゲームをしないか?」
「ゲーム?」
何を言い出すのか、と振り向いた乾に、柳は一気に畳みかける。
「そう、ゲームだ。いまから、俺がコレにもう一品足す。お前はそれが何かを当てるんだ」
コレ、と言って柳はジューサーの中にある、最早固体とも液体ともつかないものを指さす。そしてそのまま乾の返答を待たず、柳はジューサーを指した指で今度は乾の背後のシンク台を指す。
「さあ、あっちを向いていろ」
乾はまだやるとも答えていなかったが、昔から柳は何事も言い出したら必ず実行する。良くも悪くも実行力があるのだ。
乾が黙ったまま素直に回れ右したのを見て、柳は懐から懐紙を取り出し、さらにその中からパラフィン紙の包みをつまみ上げた。
少し大きめの紙を三角にたたみ粉薬のように包まれた粉末をゆっくりとジューサーへ移す。
ジューサーの蓋を開けるのに細心の注意を払う。幸運なことに今回の新作は辛うじて異臭は放っていなかった。
蓋を取り、一品加えてもう一度蓋をする。それから、わからなくなるようにジューサーのスイッチを入れ、攪拌させた。
「よし、いいぞ」
柳の許可が降り、乾が振り返る。
乾はさっそくジューサーに近づき観察をするが、見た目では変化はまったくわからない。もともと濁った色をしていたし、更に言えば、今日初めて作ったものの元の状態をそれほど鮮明に覚えていなかった。
ということは、これを味わわなければならないのか、という現実に至り、このゲームを始めてしまったことを心底後悔した。
さすがに自分で作ったものを、飲みたくない、とは大声では言えない上に、始めた以上、わからない、という答えの選択肢はない。
絶対に彼が何を入れたのか突き止めなければならない。
けれど、目の前のコレは、我ながらもの凄い存在感でもってそこに在り、それを口にするためには、なかなか踏ん切りがつかなかった。
乾がジューサーの前で葛藤しているのを横目に、柳は帰り支度を整える。
「貞治、猶予は明日の夜までだ。それまでに分からなかったら俺の勝ちだぞ。では、暇する。邪魔をしたな」
柳は再び一方的にゲームルールを追加して、気が済んだとばかりに、踵を返し玄関へ向かった。
声を掛けられ、我に返った乾が玄関先まで見送りに出た。
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
乾は、結局柳が何をしに来たのか理解できなかったが、そう言って送り出す。
「ああ、またな」
短く挨拶をして、柳は呆気なく去っていった。
一人になった台所で、乾は勇断をふるった。ジューサーの中身を少しだけグラスに移す。
えいや!という意気込みだけは充分に、実際口にしたのは小指の爪の先程の分量だった。
ただ飲み込むのでは意味がないので、舌の上で吟味するように、味を確かめる。
まず分かったことは、うまくない、ということ。
一口では、それ以上のことはわからなかった。
一度口にすれば多少の耐性がつき、二口目は、グラスに残っていた分を一息に口に入れた。
さっきよりも濃さを増した味をさっきよりも長く舌で転がす。
微かに何か懐かしい味がした。
集中しなければ気付かないほど微かに感じられる程度で、ぼんやりとだが確かに自分が入れた覚えのない食材の味がした。
それは、知っている味のはずなのに、何だったか思い出せない。
こうなると、味がどうとか言っている場合ではなかった。このままでは、気になって眠れない。
何度も味を確かめ、記憶を辿る。もう一歩というところで、核心に触れられないもどかしさが募る。
乾は気になることがあると、全力がそこへ向かい、他のことが疎かになる質だった。
結局、その後の記憶がほとんどない。夕飯を食べて風呂に入ったのもただの習慣で、憶えていなかった。
乾は、そのまま夜通し考え、ほとんど眠らぬまま朝を迎えた。
顔を洗うために洗面台の前に立ち、鏡を覗けば、寝不足でわずかに目が赤い。
体力的な問題よりも、まだわからない、という精神的な疲労が大きかった。
思考は、袋小路を堂々巡りするだけで、一向に状況が改善される気配はない。
すべてが手詰まりで、だからこそ、益々気になって仕方がなかった。
乾は、夢遊病者のように、ほとんど意識をしない状態で身支度をし、ブツブツと独り言を言いながら登校した。
時間だけが無為に過ぎ、単純すぎる命題は、段々と思考さえも麻痺させる。
そもそもこの味を知っていると思ったことが間違いだったのではないか。自分の味覚にも自信がなくなる。
最終的には、もしかしたら、柳は何も入れていないのではないか、などということまで考えた。
しかし、学校に着くと、いままでの時間と苦労を嘲笑うかのように、すんなりと閃きの糸口がもたらされた。
登校した乾を待っていたのは、いくら上の空でも気付かずにはいられない浮ついた空気。
重ねて校内で出会った事象から、導き出される事実は、今日はバレンタインデーである、ということ。
乾は、すっかり忘れていた季節のイベントに思い至ったとき、やっと答えを見付けた。
(チョコレートだ!あの味!)
乾は答えを確信し、同時にその意味を考える。
ゲームには勝利したはずなのに、何故か敗北感が拭えない。
すべてが柳の思惑通りに進んでいた。
柳は、今日になれば乾が正解に至ることを確信していたのだろう。
このゲームは、結果がどちらに転ぼうと柳の一人勝ちだということに、乾は遅まきながら気がついた。
このまま大人しく敗北宣言に近い鬨の声をあげるのは、悔しかった。
「バレンタインチョコか」
気付いてしまった以上、バレンタインというイベントとチョコレートというアイテムが無関係であるはずはなかった。
乾と柳の思考回路は、似ている。
そこに意味を持たせていることは間違いなかった。
乾は、少し嬉しいと感じる自分を嗤う。
それから、頭を休める間もなく、どうすれば柳の裏をかけるかを考え始める。
例えば、逆に今日中にこちらからチョコレートを届ければ、彼は驚くだろうか。
柳がそこまでを想定して、ゲームを仕掛けたということに、乾は、最後まで気付けなかった。
2005-02-14
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県境越えカプは、まず、会わせることに必死です。どうしても不自然だよな。ちなみに、今回柳は待ち伏せをしてました。