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水場に行くと言いつつ、脚は水場で止まることはなかった。
目的があるわけではなく、ただなんとなく独りになりたかった。
気付けば、コートからだいぶ離れた中庭を彷徨っていた。

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「侑士ー!」
探していた姿を見付けて躊躇わず呼びかける。呼ばれた忍足がするりと振り向いた。
「こんなとこで何やってんだよ?もう休憩終わるぜ」
岳人は、忍足に駆け寄りながら話掛けた。
「岳っくん、呼びに来てくれたん?せやな、戻らな。おおきに」
そう言って忍足は巧く笑顔を作る。
「なに、どうかしたのか?」
その綻びのない完璧な笑顔に、岳人は直感的に危うさを見つけた。
(侑士がこういう笑い方をするときは、しょうもないことを考えてるときだ)
「どうもせんで。さ、戻ろ」
間髪入れず答える忍足は、更に笑顔を取り繕って踵を返した。大股で歩き、岳人の横をすり抜ける。
岳人は忍足のその態度が気に入らず、歩き出した背中に怒声をぶつける。
「ユーシ!バカにすんなよ!俺をごまかせると思ったら大間違いだからな!!」
(そんな浅いつきあいはしてきてない)
岳人は、この期に及んでごまかそうとする忍足に、ごまかせると思っている忍足に、無性に腹が立った。
きつく睨みつけた背中が、翻って忍足が振り返る。
容赦なく浴びせられた怒鳴り声に振り返った忍足は、驚いた顔をして、それから、今度は力無く笑った。
それを見て、岳人は視線を緩める。
「ああ、悪い、岳人。今のは俺が悪かった。すまん」
忍足は素直に反省を示した。
「わかればいんだよ。で?どうしたって?言ってみそ」
岳人の切り替えは早い。けれど、このまま引き下がるつもりはなかった。
「ごめんやで、岳人」
しつこく謝る忍足に、気の長くない岳人はカッとなって少し声を荒げる。
「もういいって言ってんだろ!どうしたのか、って訊いてんだよ!」
「せやから、ダブルス組めんでごめんな岳人」
「は?」
岳人は、忍足の言葉の意味がわからず、思わず聞き返してしまった。
休憩の直前に、全国のオーダーが発表された。そのオーダーによれば、忍足はS3で岳人はD2だった。
確かに、忍足と組めないのが残念ではないと言えば嘘になるが、仕方がないことだ。
監督が最善だと判断した決定に意見する権利など、一度負けている俺たちにあるはずがないし、意見するつもりもない。監督を信頼しているし、その判断が正しいことを信じている。
それは忍足だって同じことだろう。
それでもそんなことを言うのは、二人が薄っぺらなダブルスコンビではないということと、忍足が混乱している証拠だ。
(ああ、ほんとしょーもない)
岳人はこっそりとため息をついて、けれど、嬉しさを隠せず、笑った。
「なに謝ってんだよ?そりゃ侑士と組めないのは残念だけど、しょーがねーじゃん」
上辺だけを見れば、忍足に謝られてしまうということは、岳人にも全国で組むことになった日吉にも失礼な話だった。
「日吉と組むのだって楽しみだぜ?あいつおもしろいから好きだよ」
忍足にしてみればそんなつもりは毛頭なく、何が言いたいのかと言えば、ただ「忍足も岳人と組みたかった」ということだろう。
忍足の言いたいことは、よくわかった。そういうふうに今までつきあってきた。
「侑士は器用だから、なんでもできるじゃん!元々シングルスプレーヤーだし。侑士は勝って俺らにつないでくれるんだろ?侑士がS3で良かったよ」
岳人は満面の笑みで言う。
それまで俯いていた忍足が顔を上げ、目を見開いた。

*
S3でよかった、と他でもない岳人がそう言う。
望んだ以上のものをもらってしまって、忍足は、ただ立ちつくす。
相手の不意を衝き奇襲を畳みかけるプレースタイル、その人となりを表したような一致を改めて思い知る。
岳人は計算ではなく、素でそれをやるから怖い。忍足でさえたまに読み負けをする。
思いもしないところから跳び出してきて、真っ正面からストレートを繰り出す。
天然の瞬発力に敵うわけがなく、忍足は、胸に一発モロにくらった。グラリと眩暈さえする幻覚を覚える。
「……ありがとな、岳人」
忍足はそう伝えるのが精一杯だった。岳人は、笑って頷く。
「まあ、侑士は器用だけど、キヨービンボーなとこあるからな。油断は禁物だぜ!」
岳人は意味を知らない言葉をニュアンスだけで使うことがよくある。だから文脈と言葉の意味がズレることが多かったが、何の因果かこんな時ばかり的を射た表現に、忍足は軽く項垂れる。
「……岳人、言葉の意味分かって使ってるか?」
「あん?」
分かってないにしろ、正に自分を正しく形容した言葉を否定もできず、首を傾げる岳人に忍足は苦く笑った。
「ほら、コート戻るぜ!跡部に怒られる!」
言うが早いか、岳人は、少し下がってから忍足に向かって助走をつけた。
「わ!?岳人!近っ!危ないやん……」
いつもよりも近い距離で地面を蹴った岳人にうろたえる忍足は、けれど、岳人が危なくないように逃げることなくその場で踏ん張った。
充分なジャンプで跳び上がり上空でくるりと半転を決めた岳人は、逆立ちの要領で忍足の肩に手をついて、忍足を飛び越えた。
「ビビんな!ユーシ!俺だってレベルアップしてるんだぜ!」
振り向きざまビシィ!と忍足に指を突きつけ、誇らしげに笑う。小柄なはずの岳人の体がなんだか大きく見えた。
忍足は、いまの心中を正確に表現できる言葉を慎重に選ぶ。
「さすが岳人や」
岳人のバイタリティには、いつでも圧倒されっぱなしで、忍足はこみ上げる笑いをこらえることなく、口元に拳を当てた。
笑いながら視線を上げると、岳人の肩越しに、後輩が近づいてくるのに気付いた。

「先輩方、何してるんです、もう休憩終わりましたよ」
唐突な声に岳人が肩を揺らし、バッと首をまわした。
「うお!びっくりした!日吉かよ!お前その歩き方気持ち悪りぃよ!」
足音もなく背後に近づいた日吉に、岳人が抗議する。
「歩き方くらい好きにさせてください」
日吉はしれっと岳人の言葉を受け流した。
「いつまで油売ってる気ですか、手間かけさせないでください」
「おー、悪い悪い!なに、わざわざ迎えに来てくれたのか?珍しいな、日吉が」
「次ダブルス練習ですから、先輩いないと困るんですよ」
日吉はさも迷惑だと言いたげな表情を作る。
けれど、岳人は全く気にした風もなくケロリとしている。
「お、そっか!よし、お前にダブルスを教えてやるぜ!ありがたく思えよ」
「ダブルスくらいできますよ」
「おっまえ、生意気言うんじゃねーよ!ダブルスの深さを知らねーだろ!」
「まあ、先輩のクセのある動きに慣れるまでが大変ですね」
気をおかず交わされる会話のテンポが心地いい。
忍足は、岳人の後ろから日吉に声をかける。
「二人とも息ピッタリやん。日吉、岳人をよろしゅうな」
どこがだよ!?という岳人の声をBGMに、日吉は、意外そうな表情で忍足を見た。
それから、岳人へ視線を動かして口を開く。
「お守りはゴメンですよ、足引っ張らないでくださいね」
「お守りってなんだよ、お前ほんとシツレーだな!そっちこそついてこれなきゃ置いてくかんな!」
「先輩こそ飛ばしすぎて息切れしないでくださいよ、置いてきますからね」
「まじムカツク!お前と組むのヤだ!」
岳人は売り言葉に買い言葉で心にもないことを言う。
けれど、ケンカを売ろうにも買おうにも相手が悪かった。日吉は古武術をやっているだけあって、受け止めることよりも受け流すことの方がうまい。
「俺は与えられた仕事をするだけですよ」
その言葉は、紛れもなく日吉の本音だろう。それ以上に、的確に状況をついた表現だった。
日吉のその気持ちはよくわかる。
(とくに俺たちは二度負けるわけにはいかんのや)
黙ってしまった岳人に、忍足が助け船を出す。
「ほんまそろそろ行かんと、雷落ちんで」
「げ、ヤベー!ほら行くぞ!」
「まったく……」
走り出した岳人に、日吉が続く。

岳人が走りながら跳びはねる。
「上には上がいることを教えてやるよ」
日吉が先を見据えひとりごちる。
「下剋上だ」

前を行く二つの背中を眺めながら忍足は歩く。
その頼もしい後ろ姿に、この二人のダブルスならば大丈夫だ、と確信した。
自分は自分の役割に集中すればいい。
日吉の言うとおり、与えられた仕事をする、という最低限のことが、彼ら相手には難しいということを知っている。
それでも。
まずは、一勝。
そう肝に銘じて、岳人と日吉の後を追い一歩踏み出した。





2005-08-01
下剋上等!記念