「金太郎、」
「なんや白石」
呼びかければ、ドアの外から返事がある。
「今から俺が言うことちゃんと聞いて、忘れずにやるて約束できるか?」
「やくそくか?」
「約束や」
「やくそくは守らなアカンねん」
「そうやな、金太郎できるか?」
「ワイできる!」
「よっしゃ男の約束やで」
「男のやくそくや!」
「ほしたら、いますぐ財前からもらったマスクつけえ、今日は家帰るまでそのままやで、ええな?」
「わかった!」
「ええ返事や」
背負った巾着からマスクを出しているのだろう、物音のあと、金太郎の声がくぐもった。
「つけた!白石ぃこれ苦しい!」
「あー最初はな、まあ金ちゃんならすぐ慣れるわ。こっからが大事やで」
「うん」
「俺の部屋出たら帰る前に洗面所行ってきれいに手え洗ってよくうがいすること!あと家帰ったらすぐにもっかい手洗いうがいや。ええな?忘れたら毒手やで」
「毒手いやや!」
「今日は絶対に買い食いしたらアカン。それから、」
「まだあるん?」
金太郎が従順にきくのをいいことに上げ連ねていく条件に、さすがに焦れたのか不満の声を漏らす。
それでも退いてはやれない。
「できんのやらいますぐ帰り」
「いやや!帰らん!できる!それから?」
「明日から財前が口きいてくれんくても、しつこく追いかけたりしたらアカンよ」
「なんで?」
「金ちゃんが悪いんやんな、財前怒らすんわかってて来たんやろ?そういう時はちゃんと反省せなアカン」
まあ財前は怒っとるんやなくて感染予防やろけど。
「そうかあ、わかった」
「約束な」
「やくそくや!」
金太郎の返事を聞き満足して、最後のチェックを始める。
「ちょお準備するで、金太郎あと少し待てるな?」
「……待てる」
金太郎にしたら、なけなしの辛抱やろうに、よう頑張る。この調子でもう少し色んなとこで辛抱できるとええんやけど。

本格的にベッドから起き上がり、部屋を見渡す。
空気清浄機はちゃんと動いてんな、いちお除菌スプレーも振っとくか、気休めくらいにはなるやろ。俺もマスクして、除菌ティッシュで手を拭いて、と。
あとは……、枕元に置いておいたバスタオルが目にとまった。
んーこれでええか。
「金ちゃんええよ。お待たせ」
「よっしゃー!白石!来たで!」
「ぶっ!」
勢いよく飛び出してきた金太郎の顔を見て思わず吹き出してしまった。
「金ちゃん!そのマスク!?」
「んー?」
金太郎の顔半分を覆っているマスクは単純に白くはなかった。
「財前か……」
「あー光がくれる前になんや書いとったわ。これ何て読むん?」
「ごしゅうしょうさまです、やな……」
マスクの白いキャンバスに、黒く大きな文字が収まっていた。
あいつよう咄嗟にこんな漢字書けたな。言葉のチョイスは実に彼らしい。意図するところは財前なりの「お大事に」という意味だろう。
「どない意味?」
「んあー」
まさか「お大事に」だと教えるわけにもいかんし……他で金太郎が使うたらシャレならん。
けど、きっちり説明するんはぶっちゃけめんどくさかったので、耳触りよく手を抜いた。
「知りたいんやったら、自分で辞書ひいてみ」
「あー辞書かあ……辞書なあ」
金太郎の声が分かりやすく沈んだ。
「せや、自分で調べたらちゃんと覚えられんで」
こりゃ調べんな。まあええわ。

「白石ぃ、そんなんで毒手大丈夫なんか……?」
バスタオルをぐるっと巻いた左腕を恐る恐る見る金ちゃんは素直で可愛ええ。
「応急処置やけどな、巻き方にコツがあるんや。短い間ならこれでも平気やで」
「ほんまに!?」
「けど!あんま近付いたらアカン!」
すぐに飛び付いてきそうな金太郎へ大きめの声で先手を打つ。
「ええー」
「金ちゃん、ここ座り」
わざと左腕を見せつけるように近づけて、床に座布団を置いた。
「……はあい」
金太郎はテンピュール素材の座布団に大人しく座った。
「ええ子やな。そっから手ぇめいっぱい前に伸ばしてみ?」
「?こうか?」
首を傾げながら伸ばされた手の、少し先にもう一つ座布団を置く。
「そうや。じゃ、俺はここ」
腰をおろせば、まるでシーソーのように金太郎の腰が浮いた。
「!遠いわ!!そんなんじゃ白石に届かん!」
確かにここは、金太郎が手を伸ばしても届かない距離。けど、
「ほら」
手を伸ばして、差し出されている金太郎の右手を握れば、繋いだ手に金太郎の視線が落ちる。
「金ちゃん、見舞い来てくれておおきに」
金太郎はじっと、お互いの右手を見つめる。
「けどな、インフルエンザってのは風邪の中でも特別なんや。普通の風邪よりもうつしてしまいやすいから、かかったら学校にも行ったらあかんねん。わかるか?」
「……うん?」
なぜいま俺に近づいたらいけないのか砕いて説明したつもりだったが、金太郎の反応は薄い。
彼にわかりやすいように、言葉を変えた。
「俺は、金ちゃんにうつしたない」

正面から金太郎の目を覗き込めば、その目の奥で光が翻る。
「あーわかった!」
金太郎がニコっと笑ったと思ったら、繋いだ手をものすごい力で引っ張られた。
「えっちょっ!」
予想外の動きにまったく踏ん張ることができず、加減を知らない金太郎に容易に引き寄せられ勢い余って金太郎の肩にぶつかってしまった。痛い。
「あれ?白石、軽なったんちゃう?やせたか?」
「アホか!ベスト体重維持しとるっちゅーねん……て、金太郎!人の話聞いてたか!?」
金太郎の動きも思考もさっぱり読むことができず、混乱する。
「聞いてたで?」
「ちょっ、とりあえず離しぃ」
「イヤや」
「イヤて……あんなぁ金ちゃん、」
「白石はワイにカゼうつしたないんやろ?」
「聞いとるやん!」
「聞いとるで」
「それでなんでこうなるん……?」
せっかく離れて座ったのに、あっという間に距離を詰めた金太郎が空いてる方の手をすっと伸ばす。ペタリと額に金太郎の指が触れた。
「気持ちええ?」
体温の高い金太郎の手は、熱の下がった額には、ただただ温かい。
「……うん、気持ちええわ」
「せやろ!」
マスクで顔の半分が隠れているが、金太郎のよく動く表情は目だけでも充分雄弁に感情を表現した。
決して嘘をついたわけやない。
「ほら、もうええやろ、離れ」
これが、来た目的だと言っていた。
「よおない!」
気が済んだなら一刻も早く離れてほしくて促すが、再び予想外の強い反発にあい、困惑する。
「何がや」
「やって離したら白石また遠く行くんやろ」
額から手をどけて上目遣いに見る金太郎が両手で俺の手を掴む。
「当たり前やんか」
いま俺は、症状は治まったが確実にウイルス持っとる一番ヤバイ時期や。
こんなん金太郎にうつしたらほんま立ち直れん。
ウソの毒手がホントになってしまったら、どないしたらええんや……。
「イヤや!離さん!」
「金太郎!……ええかげんにせんと毒手やで!こんなタオル応急処置やからいっぺん外したら最後や。金ちゃんは死にたいん?」
金太郎にうつす可能性を減らすためなら、いま一番使いたくない手やって意を決して使う。
「毒手はいやや!」
ブンブンと首を振る金太郎は、本能なのか、さらにギュウと俺の手を掴む力を強めた。
マスクで口が塞がっているいま、右手が空かなければ毒手言うてもどうしょうもない。
賢なっとる……。





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